ナニモノでもない

ナニモノでもない
ナニモノでもない

絵を描いているとき、ふと響いてきた言葉——「ナニモノでもない」。
私たちは何者かになろうとし続けるけれど、本当はずっと、何者でもないまま、生命の源とともに在るのかもしれません。

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土に還る木シリーズ。「humus」2016年の作品に加筆。屋久島の赤土・白土。

森の中の倒木。
土なのか、木なのか。
生きているのか、死んでいるのか。

この絵を描いているとき、内側からふと響いてきた言葉がありました。

「ナニモノでもない。」

「今までもナニモノかであったことはないし、
これからもナニモノにもならない。」

そう聞こえた瞬間、思わず力が抜けて笑ってしまいました。

「ナニモノでもない。」それは、私という存在の輪郭がやわらかく溶け、
ただ“生命の源”そのものに戻っていくような瞬間でした。

humanの語源は “humus(大地)”
「大地(humus)の(-anus)=大地から生まれた人間」
これが human の語源だそうです。

ラテン語 humus は「土」、
humere(umere) は「湿っている」、
homo は「人間」。
湿り気を帯びた低いところには水がたまり、
humor(湿気・液体)へとつながっていく——

語源英和辞典より

humus には「腐植」という意味もあります。
大地の腐植から、私たち“人間”も生まれてきたのですね。

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土に還る木シリーズ。「humus」
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土に還る木シリーズ。「humus」

絵が教えてくれること

私は、絵を描きながら、絵からメッセージを受け取ることがよくあります。
自然がそのまま、筆を通して教えてくれるのです。

「いかに、私自身をなくして描けるか。」
自分がなくなればなくなるほど、
“ソース(生命の源)”そのものになって描けます。

個が消えると、源から響いてくる。
深い深い海に潜っていくように、
ただ静かで、何もない空間へとたどり着く。

そこにあるのは――
ナニモノでもない状態。

それこそが、本来の姿なのかもしれません。

「はに」と「沈黙」

赤土のことを「はに」と言います。
埴輪(はにわ)の「埴(はに)」ですね。

昔のテレビ番組『おーい!はに丸』を覚えていますか?
古代からやってきた“はに丸”は、最初は「はにゃあ」「ふにゃあ」としか喋れません。
子どもに言葉を教える教育番組でした。

そして最終回。

何でも喋れるようになったはに丸が、
最後に学ぶのは――沈黙
「沈黙の意味を学ぶ」という
見事な着地点を持つ番組だったそうです。

昔読んだ『花椿』の記事より

私たちもきっと、
頭の中のおしゃべりを沈黙させる時間が必要なのだと思います。

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土に還る木シリーズ。「humus」
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土に還る木シリーズ。「humus」
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土に還る木シリーズ。「humus」
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土に還る木シリーズ。「humus」

ヒルマ・アフ・クリントと「私」

数日前、スウェーデンの画家
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint) さんを初めて知りました。
Amazon Primeで偶然、彼女の映画が表示されたのです。ヒルマwww.amazon.co.jp

彼女の創作の姿勢、言葉に深く共感しました。

「私が描いているのではなく、
私を通して描かれるのです。」

では、その『私』とはいったい何でしょう。

瞑想ワーク:「いつから私?」

今回紹介するのは、
『いつから私?』という瞑想ワーク です。
(音声で誘導します)

自分を振り返っているとき、ふと湧き上がった問い。

“私って、いつから私なんだろう?”

お母さんのお腹から生まれたとき?
受精したとき?
それとも――もっと前?

たどっていくと、やっぱり辿り着くのは
“生命の源”です。

この感覚は、言葉ではなく体感でしか伝えられません。
源の感覚を、いっしょに体験してみましょう。

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ナニモノでもない

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